石破 茂 です。
森友学園に関する財務省の公文書書き換え問題で、今週も永田町は騒然とした雰囲気に包まれました。
福田康夫内閣において制定された公文書管理法は、第一条に
「公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用できるものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、もって行政が適正かつ効率的に運用されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在および将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする」と定めています。
公文書は官僚のものではなく国民のものであり、行政が適切に行われたことを現在と将来の国民に説明するためのものである、ということなのであって、国民のものを官僚が勝手に都合の良いように書き換えたりすることは、この法の趣旨を冒涜するものです。
直接の被害者は、書き換えられた公文書を提示された国会ですが、むしろ主権者たる国民こそ本当の被害者なのです。我々は主権者の代表としてこの件の真相を明らかにする責任を負っています。
福田康夫元総理は昨年9月7日、インタビューに答えて「これは官僚が後から何か言われたときに説明する資料になる。だから役人を守るためのものでもある」「官僚は自分たちは国民のためにいるのだと意識しないといけない。それはできない、記録に残りますよと一言言えば政治家だって無茶なことは言わない。不当な政治の介入などを排除できる」と述べておられます。
閣僚としてお仕えしていて、福田総理がこの法律制定に大変な情熱を燃やしておられたことをよく記憶していますが、書き換え・改竄などは想定外だったことでしょう。
自ら命を絶たれた近畿財務局の職員は、この法律の趣旨をよく理解しておられたと思料します。書き換えを指示した職員は、この趣旨を冒涜し、国民に対する背信を働いたものと断ぜざるを得ません。
先週、世界のシンクタンクのトップによる「民主主義の危機とは何か」と題する非公開の国際シンポジウムでスピーチと議論をする機会を得たのですが、とても示唆に富む有益なものでした。
手続きが煩瑣で時間がかかり、得られる結論が必ずしも正しいものとは限らず、時として衆愚政治に陥る危険性を持った民主主義の価値・正統性とは、「得られる結論が正しい」ことにではなく「手続きが正当である」ことにこそ求められるのだと思います。
これを少しでも上手く機能させるためには「主権者が出来るだけ多く決定に参加すること」と「主権者ができるだけ正確な知識と情報を得られること」の二つが必要なのであり、これらを欠いた民主主義は形骸化し、不幸な結果を招来することになりかねません。
浅薄な理解で恐縮ですが、チャーチルの述べた「民主主義は最悪の政治制度である。これまで存在した他のあらゆる政治制度を除けば」という言葉はこのような意味を持ったものだったようにも思います。
その意味でも、自民党の憲法論議の進め方にはやはり疑問を感じています。自民党所属議員は衆議院283名参議院122名の計405名いるのですが、過去最高と思われる昨日の会議の出席者でも150人程度、3時間近くにわたった議論の最後まで残っていた議員は精々20人ほどでした。
いつまでも議論ばかりしていてもどうにもなりませんので、どこかで取りまとめの段階に入るのは当然ですし、私自身も過去このような手法を採ってきました。しかし、ことは最高法規である憲法、それも日本国憲法の三大原理である平和主義、我が日本国の独立と平和に関わることで、他の法律案とは性格が異なります。
私は昨年のかなり早い段階から、国会閉会中に、全議員に地方の代表も加えた形での、数日をかけた時間制限のない徹底した議論の場を設けること、それこそが自民党の本気度を国民に知らせ、結果的に結論を早く出すことに繋がること、を何度も主張してきましたが、結局これが実現することはありませんでした。
昨日の議論でも、集団的自衛権と集団安全保障の差異を理解していない、交戦権を「相手を殲滅させる権利」であると誤解している、日本の国内法に当然従わない侵略の相手方に対して「自衛隊は国内法を守る法執行機関として対応すべき」とする、などの意見が見られ、これでは政治的に配慮した結論になるのも仕方のないことなのかと思いました。
多くの議員が、どこかで憲法前文の「日本国民は平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」という幻想に過度に捉われているように思われます。前文に言うようなことがそのとおりであればどんなに良いことかと思いますが、国際社会はそのように甘いものでは決してありません。
我が国が平和主義に徹し、決して侵略国家とはならないことはどんなに強調してもし過ぎることはありませんが、これと、我が国に手をかけようとする相手方に侵略を思い留まらせる拒否的抑止力を持ち、侵略を受けた際にこれを排除する能力をいかに強く持つかは全く別の問題なのであり、これを混同するようなことがあってはなりません。
「理想は第二項削除だが、これでは国民の理解は得られない」との声も聞かれましたが、どうして最初からそのように決めつけてしまうのでしょうか。理想に少しでも近づけるべく努力するのが政治家の務めであり、熱意と信念をもってその技量を高めるようにするのが本来だと私は信じます。
今でも3割近い国民は理解を示しているのであって、これをあと2割高めることすら出来ないというのはどういうことなのでしょう。
週末18日日曜日は、鳥取市長選挙・深沢よしひこ候補予定者出陣式において街頭演説(午前8時・深沢選挙事務所前・鳥取市新町)、彼岸墓参(午前10時・八頭町)、倉吉市長選挙・石田耕太郎候補予定者街頭演説会(午後1時・JA鳥取中央久米支所前・倉吉市横田)、という日程です。
鳥取市、倉吉市とも誠実で実行力のある現職が再選・三選を目指しての立候補です。
亡父も二期目以降の鳥取県知事選挙は事実上の信任投票でしたが、選挙期間中は知事公舎を出て仮住まいをしながら、一切手抜きをすることなく全力で戦っておりました。吏道とは何か、選挙に臨む候補者の心得とは何かを身をもって体現していた人であったように思います。いつまで経っても決して超えることの出来ない父親
を持ったことに常にコンプレックスを感じているのですが、でもそれはとても幸せなことであるようにも思います。
この土日は久しぶりに少し余裕のある日程ですが、机上に山と積まれて雪崩寸前状態となっている資料の整理や、先週と今週に恵贈いただいた十数冊の本に目を通すだけで終わってしまいそうです。
頂いた本に目を通すのに精一杯で、書店で本を選ぶ機会がとても少なくなってしまっていることは残念であると同時にとても気がかりです。世の中にはさらに多くの、目を通すべき書籍や知っておかねばならない知識もある
と思うと、焦燥の念に駆られます。
暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったもので、都心は今日の夕刻から寒さが戻ってきそうです。
皆様体調にご留意の上、お元気でお過ごしくださいませ。