八木 哲也です。地元の愛知県豊田市・みよし市の地方新聞「矢作新報」(R1.8.23)に掲載された私のエッセイ「時々刻々 No.920」をご紹介します。
【「時々刻々 No.920」】三代目「高橋」開通に感慨
長梅雨で梅雨冷が終わると、途端に日本中が猛暑に襲われた。豊田市では8月13日、38・9度を記録した。日本一だ。8月5日に臨時国会が終わると、7〜8日に東北に足を運んだ。毎年恒例となっている東日本大震災の被災地訪問だ。
宮城、福島両県を訪ねると、着実にインフラ整備が進んでいた。一方でいったん被災地を離れた人々が、なかなか戻ってこない現実も垣間見えた。政府は自民党の要請を受け、復興庁を継続させる方針を固めた。ハード面で進む復興と併せて、ぜひ被災者に寄り添うソフト面の充実を図ってほしい。自民党は7月の参院選挙で宮城県で敗れた。「敗北の背景はそこにある」と指摘する声もあった。
8月11日、高橋地区の住民にとって悲願だった「高橋」の開通式があった。猛暑の中、3世代に渡る6世帯の方々と、県知事、市長など関係者と渡り初めをした。
20年前の平成11年3月、豊田大橋の開通式があった。私は雨の中、町内の山車を引いて参加した。市議会選挙に立候補したのはその翌4月だった。村山栄次郎氏が亡くなられ、そのあとを継ぐことになったからだ。「高橋」に強い思い入れを持っていたのが村山氏だった。市議会の一般質問でたびたび「高橋」の架け替えについて質問されていた。村山氏の遺志を継ぐべく、当選後の6月、市議会の一般質問で「橋の効果」に関して豊田大橋のストック効果と「高橋」の架け替えの進捗状況を質問した。昨日のことのようで感慨深い。旧「高橋」は明治36年に完成した木造の橋だった。小さい頃、橋を渡ると割れた板の隙間から砂利が落ちた場面が脳裏に焼き付いている。老朽化していたためか、昭和28年に台風による豪雨で流されてしまった。
その翌朝、父と柴田千里(元大豊工業社長)さんが「東京へ行ってくる」と、地元出身の小林代議士に陳情するため上京していった。実は私の実家の納戸には旧「高橋」の木造の欄干を保存していた。気になってみてみると、いつの間にかシロアリに食われ、見るも無残な姿になっていた。思い出は色あせないが、現実は残酷だ。
旧「高橋」が流失するといったん流れ橋の仮橋が架かり、3年後の昭和31年に鉄橋ができた。その間は毎日が楽しみだった。真っ赤に焼いた鉄のリベットを下から投げ上げ、上でそれを受けてハンマーで叩く。熟練した作業の見事さに感心した。たまに上で受け損ねて、川へ落ちるとじゅうと音が立つ。これも面白かった。
橋が完成して渡り初めの日の夜、花火が打ち上げられた。生まれて初めて金魚花火を見た。花火が矢作川をキラキラ泳いだ。
開通当時、5・5mの幅にみんなが満足したと思う。だが次第にバスのすれ違いなどができない不便さが気になった。「俺の目の黒いうちに高橋を架け替えろ」と幾度もご叱責を頂いた古老は、もういない。架け替えに一番ご尽力いただいた倉知先生と一緒に渡り初めをすることもできなかった。
先人の思いがこもった橋だ。令和の時代、そしてその先の人々も「高橋」に思いを込めて架け替えるのだろうか。
生年月日:昭和22年8月10日
当選回数:3回
学歴:1972年3月 中央大学理工学部管理工学科卒業
得意な政策分野:経済産業 科学技術・イノベーション 文部科学 地方創生
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